領事シニアボランティア体験記
私のニューヨーク(2003年~2006年)及びサンフランシスコ(2009年~2012年)の総領事館勤務の体験記です。領事シニアボランティア制度は、外務省改革の一環として領事サービスの向上を図ることを目的として2003年に設けられました。遠く離れた異国の地で暮らす日本人、日系人を取り巻く色々な出来事の一端をご紹介します。かならずや興味深くお読みいただけると思います。体験記は私の第二の勤務先である放射線の安全・有効利用の(株)千代田テクノルの社内報に投稿したものです。 市川

先月号でお伝えした通り、私のニューヨークとサンフランシスコの総領事館勤務の体験の中から、遠く離れた異国の地で暮らす日本人、日系人を取り巻く色々な出来事の一端をご紹介します。
今から11年前のことになります。2003年の正月明け「外務省、領事シニアボランティアを募集」の新聞記事に釘付になりました。この制度は外務省改革の一環として領事業務、すなわち在外公館の行政サービスの向上に資するべ
く創設されました。第1期生として10名が10公館に派遣されるというものでした。早速応募し首尾よく合格通知を得、その年の12月雪降るNYへ赴任しました。それは奇しくも私が還暦を迎えた年でした。
着任以降、官民の文化の違いに戸惑いながらの日々が始まりました。来館者に対する領事窓口での対応、待合ロビーでの案内を通じて感じた改善点の提言、邦人援護の手伝い。また在外選挙登録促進のため企業を訪問し、領事館に対する要望事項の聴取等を行っていました。
そんなある日のことです。窓口に見えたご夫妻から「息子の米国での就職先が国防関連の会社のため日本のパスポートを放棄するように言われ当惑している」との相談がありました。担当官の「残念ながらパスポートの自主的放棄は国籍の放棄となります」との返答に困り果てている様子を見ていた私は、窓口から待合ロビーへ出てゆっくりお話を伺うことにしました。ご夫妻は、米国生まれのお子さんを、小さい頃から毎年夏休みになると、日本の学校で授業を受けさせ日本の生活を体験させていらっしゃいました。本人も日本人であることに誇りを持っており、仕事のためとはいえ日本国籍の放棄など絶対したくないとのことでした。
国籍への熱い想いに打たれ、領事館内で検討した結果、パスポート放棄の申請レターを領事館あてに送ってもらい、それを受けて、彼の採用担当官あてに「放棄申請があったが領事館としてはそれを受け付ける手続き手段がない」という“領事レター”を送付することにしました。結果、「国籍を放棄することなく入社することができました」とその後お礼の連絡をいただきました。異国の地で暮らす方々にとって、国籍はまさに各人のアイデンティティーの源であるという事実を、強く認識させられた出来事でした。
(市川 俊治)


ニューヨーク総領事館の管轄地域は、カナダ国境まで広がるニューヨーク州からカリブ海に浮かぶプエリトリコと広域のため、遠方に生活される在留邦人方のために出張サービスを行っています。領事(法務省から出向)に同行して、雪の残るニューヨーク州のバッファローを訪問したときのお話をしましょう。
バッファローはナイヤガラの滝で有名なエリー湖に面した町、運河によりニューヨークまでの海上輸送で栄えた所です。私達は、バッファロー日本人会の幹事役Yさんの迎えで、会場のホテルに直行しました。予定をしていた3時間の間に、パスポート発行、在留証明、出生証明受付、在外選挙人登録受付と瞬く間に時間が過ぎました。
そうした中、広島出身の日本人女性A子さん(米国人と結婚)の相談は、3人目までのお子さんに日本国籍を取得したいというものでした。A子さんはバッファローに来て25年で4人のお子さんに恵まれました。第1子が誕生したのは1984年12月30日。その時の法律では外国人の夫との間に生まれた子供は日本国籍を取得できませんでした。その2日後の1985年1月1日には法改正があり、A子さんは、母親が日本国籍の場合は日本国籍を取得できるようになったことも知らぬまま時は過ぎて行きました。4人目の子供が生まれた時ようやくそのことを知り「第4子は二重国籍を選択*」したとのことでした。
A子さんは子供たちには日本人としての誇りを持つよう教育したそうです。その結果、長男は医学部で勉強に励み日本国籍を取得し、日本に住むことを強く望んでいるとのことでした。恥ずかしながら私は、1985年1月1日以降、父系主義から父母両系主義に変わるまで、日本人母と外国人の父との間に生まれた子供は日本国籍を取得できないという事実を知らなかったのです。内なる国際化の遅れに驚かされ、思わず同行の領事に紅顔「そんな馬鹿な」と叫んでいました。たった2日違いで日本国籍が取得できなかったお子さんの運命に一人拳を握りました。
私達のサテライト相談は盛況で、相談の方が大勢おられたので夕食を共にお話をお聞きすることとなりました。ナイヤガラ観光の日本語ガイドを40年近く続けて来られた元気な3人のご婦人は、日本の基地で働く米国人と結婚され、ご主人は既に亡くなられたがお孫さんが遠方より訪ねてきてくれるのを楽しみにしていること。皆さん口をそろえて「大和撫子として一生日本国籍のまま頑張る」と笑顔でおっしゃっていたことが強く印象に残りました。
異国の地に根を張って長年暮らしながらも、祖国日本を常に意識している人々がいらっしゃることを初めて意識させてくれた瞬間でもあり、国籍とは何かを自分に問いかけるものでした。バッファローの皆さんのこと、前号の青年のこと、米国で活躍された後、老後の生活を考え日本に帰国するか。日本国籍を放棄して米国籍を選択するか……。思案される方が身近に少なからずいらっしゃることを考えるとき、国籍はまさに各人のアイデンティティーの源であることを再認識させられました。
今後ますます国を越えて働き、生活し、その根を海外に下ろす人が増える中、また少子化対策のためにも、出生によりその国の国籍を自動的に取得した場合や、外国人と結婚し生活の安定のため等の理由でその配偶者の国籍を取得せざるを得ない場合に、日本の国籍を放棄しなくともすむようにすることを前向きに考えるべきであると強く思いました。また日本国民が海外で生きる選択肢を増やすことがグローバル化への支援ともなるでしょう。それ故、国籍制度を考える場合、日本人の活動の場は日本だけではなく地球全体であるという前提で考えることがこれからは必要だと思うのです。
*<二重国籍の選択>とはアメリカで生まれると、出生地主義のため自動的に米国籍を取得する。日本の場合は、国籍唯の原則で、二重国籍は認めていない。出生により外国籍を取得した場合は、日本国籍は留保され22歳になるまでの間にいずれかの国籍を選択する必要があるが、それまでの間は二重国籍者となる。


大使館、総領事館には国家を代表してその国の政府と交渉し、国全体の利益をまもることに主たる任務である大使(広く外交官)、国民の個人の利益を守ることに主たる任務である領事がいます。領事の具体的な仕事はパスポート・ビザの発行、証明書の発行、戸籍や国籍の手続き、年金や選挙権など日本国内における権利をまもること。加えての大事な仕事は国際間の司法手続きや邦人援護等です。邦人援護とは日本人が異なる環境のもとで、時には習慣の違いから思わぬ立場におかれ、苦しんでいる日本人を援護し救い出すことです。今回はサンフランシスコ総領事館での邦人援護の経験談をお話しいたします。
それは「留学中の娘に悪い友達が出来たようで語学学校に通っているのか心配だ」という母親(日本在)からの電話で始まり
ました。早速学校に確認すると3ヵ月ぐらい前から学校には来ていないとのこと。学校へ出向き日本人の学友を探し出し、彼女が米国人の友達の家に同居し、日本人の男性がその家に出入りしていること。その連絡先を聞くことが出来ました。その日本人男性に総領事館に来館いただきお話を聞きました。それによると彼女は米国人の家で時々物を投げたり、精神的に不安定であること。悪いことにマリファナを愛用しているようだとのことでした。その日本人も何か胡散臭い方でありました。
日本のご両親に連絡をとり娘さんを日本に連れ帰ることを進言しました。
飛んでこられたご両親が娘さんに帰国を促す場に同席しました。しかし娘さんはこれから真面目に学校に通う、日本には帰らないの一点張りで、取り付く島もありませんでした。ご両親は1週間滞在されましたが肩を落とし失意のうちに帰国されました。滞在中のご両親から娘さんが10代後半の時、軽い統合失調症(精神 分 裂 病 )を 患 わ れ た こ と 。 薬 を 服 用 し 安定していたがパリに語学留学した後、そのままパリで働き始めたが数年後そこを辞め、サンフランシスコに語学留学したこと。薬の服用は中断しているのであろうことをお聞きしました。
その後、娘さんは米国人宅からアパートに移ったとの情報もあり、再度ご両親に来訪を促しました。と同時に今回は事前に作戦を練りました。アパートの日本人の方にも協力をお願いしてマリファナを吸引する彼女を現行犯逮捕してもらい日本へ強制送還する。と、ちょっと手荒ではありましたがこんなストーリーを立てました。連絡を受けた数人のポリスは部屋に踏み込み、暫く話していたのですが部屋から出て来ました。その展開を訝る我々にポリスは「第三者に危害を及ぼさない限り逮捕はしない」と一言。これには全員落胆するという、笑うに笑えぬお粗末な結果でした。

次なる方策はサイコセラピストの力を借りて薬服用を促す作戦でした。知り合いのセラピストには事前に状況を説明しておいたのですが、面談の途中で母親も同席してから事態は一転しました。自分は未成年期に母親から精神病のレッテルを貼られたという強い被害妄想があり、それが本人のトラウマとなっているという心の病の深部に迫る親子関係にまで踏み込む経験でした。
方策尽きてご両親は今回も失意のうちに帰国されることとなりました。それから数ヵ月後、以前話を聞いた日本人男性から「米国人の友人と自分が日本に遊びに行くので、その時娘さんを日本に連れ帰ってもいいが、旅費と謝礼を要求したい 」と いう連 絡でありました。日本のご両親も色々と迷われた末、娘を救う一心で要求を承諾し、娘さんは日本に帰国しました。帰国後ご両親から連絡があり娘さんは自宅に戻り、薬を服用し落ち着いた日々を過ごしているという感謝の報告でした。これを以て一軒落着とはなりましたが、私には何故か割りきれない後味の悪いものが残ってしまいました。
現在国内においては統合失調症の方、そのご家族は世間の目を気にしながら生活されている実態は歴然としてあります。そんな状況下、ご本人もしがらみなく自由に振る舞うことが出来る海外に旅立ち、それをご家族も黙認するケースが見られます。色々な精神疾患の方が海外に渡航されます。時として色々なトラブルを起こすため、邦人援護の担当者は日夜多忙を極めています。
考えてみればマリファナ吸飲者に対するポリスの対応の是非もカリフォルニア経済の落ち込みからの歳入不足を考慮すると、刑務所も人手不足の状態のなせるやむを得ざることだったのでしょう。ただ、日本もいずれ同じような社会となってしまうことを懸念したのでありました。
(営業統括本部 市川 俊治)




そんな寒さのおとずれた日でした。領事部長から「退院後入院費が払えなく困っている日本人女性A子さんの支援」の依頼がありました。A子さんは日本で勤務していた会社の元上司に窮状を訴え、その上司が外務省に支援を要請してきたのでした。早速電話で状況の確認です。A子さんは救急車で運ばれ、緊急入院となり集中治療室を経て通算10日間の入院となりました。その治療費として25万ドル(当時28百万円相当)と救急車利用費300ドルの請求を受けたのです。これはとても払うことが出来ないという苦慮の末の相談でありました。
A子さんは5年前に日本からNYに移住し不動産ブローカーとして第一線で日々忙しく働いていましたが、風邪を引いてしまったのです。医者に行く時間を惜しみ日本から持参した風邪薬5種類を3日間飲んで仕事を続けていました。しかし回復の兆候は見られません。そればかりか、朝起きると高熱と全身赤い斑点。加えて瞼はほとんど開かない状態。救急車で入院となったのです。病名はスティーブンス・ジョンソン症候群と診断され、今は目に後遺症は残るもののかなり回復したとその状況を概ね掴み、私は彼女とその高額の支払について病院のソーシャルワーカーに相談すべく同行しました。大病院には第三者の立場に立って患者の諸々の相談に乗るソーシャルワーカーと呼ばれる職員が配備されています。そのアドバイスは驚くことに「①値引き交渉、②自己破産、③日本へ逃げ帰る」でした。早速、値引き交渉を病院と開始。即座に半額まで減額されました。取れない金額を何時までも要求するのではなく取れる範囲で回収できれば良いという考えです。それでも要支払額は14百万円。次に自己破産を申請すべく弁護士事務所を訪問。タイミングも悪く、ブローカーから3ヵ月分の報酬が預金通帳に振り込まれたばかりでした。残高が規制額を超えており、自己破産申請は不適格となってしまいました。A子さんのアパートの扉には、病院から委託された治療費取り立て業者の支払いを促す督促状が毎日放り込まれていました。精神的にも追い詰められる日々が続いていました。このままでは日本に帰国しても取り立てに追われ、出国すればブラックリストに載り、二度と米国の土は踏めない。と悩みに悩みましたが、時置かずして彼女は結論を出しました。「これまでお世話になったお礼です」と帰国を選択したことの連絡を受けました。
このように思わぬ形でこれまでのキャリアを諦めざるを得なかったA子さんの無念を思うと心が痛みました。それにしてもソーシャルワーカーのアドバイスには、−―患者の状況を直視した上で、実現可能な選択肢を提示し、患者に対応させる米国社会の実利的、実用的考え方。プラグマティズムには−−驚かされる経験でありました。皆さん風薬と侮る事なかれ。いやその前に風邪を引かぬよう気を付けましょう。
(営業統括本部 市川 俊治)

大震災に学んだ義捐
東日本大震災発生から4年の歳月が経とうとしています。私はこの大惨事を当時サンフランシスコの自宅のテレビで知りました。丁度日本との時差は17時間。夜の10時過ぎのことでした。テレビに釘付けになりながらも、テレビに映りだされる映像は理解を超えるものであり、SF映画を見ている様でとても現実のこととして受け止めることができませんでした。サンフランシスコ領事館には、震災発生直後から多くの方々からのお見舞い、支援、義援金が寄せられ、国籍を問わず、被災者を想い、日本の復興を願い支援して下さいました。今回は、その時のことをお話ししたいと思います。
日本時間2011年3月11日午後2時46分、震災は発生しました。領事館ではその1時間後に緊急対策本部が立ち上げられ、全館員の携帯に災害発生が伝えられました。8時間から10時間後にはサンフランシスコにも津波が到達する可能性が想定されるとして、緊急対策チームが編成されました。手分けしての情報収集と在留邦人への情報提供。そのタイミングなど徹夜での作業となりました。翌朝からは会議室が災害対策オペレーションルームとなり、総領事を本部長に邦人安否関係、支援受入(募金等)、報道・インタビュー、情報収集などチームに分かれて対応が始まりました。領事館の電話は朝から鳴り止まず、涙ながらに安否が分からないと連絡してこられる方、義援金の申し出の方、それはさまざまでした。その後、原発の被災状況が明らかになるにつれ、その対応策に関する技術的なアドバイスが原子力産業の方々から数多く寄せられるようになりました。領事館ではその貴重なアドバイスも専門的判断がつかないとの理由から、米国国防総省(United States Departmentof Defense)へ情報提供を集中していただくようにお願いするしかありませんでした。
震災から3週間が経過したころからです。これを機に日本と取引したいとする商魂たくましい企業からの連絡が増えはじめました。こうした申し出にはサンフランシスコにあるJETROに繋ぎました。被災者への住まいの提供のオファー、災害孤児を養子にとの申し入れもありました。米国では養子は社会に広く認知されており「養子大国」と呼ばれているほどですが、日本政府は介在できないため日本の養子斡旋を行うNPOを紹介させてもらいました。犠牲者への弔問、記帳にも多くの方が来館され、それぞれの国の言葉で哀悼と励ましの言葉を頂戴しました。また、学生さんたちからは折鶴の栞を放課後お店の前で売りましたと売上金を、子供たちは誕生会のために貯めたお金を届けてくれました。こうした多くの善意は尽きることがありませんでした。
サンフランシスコの皆さんがここまで支援をして下さる背景の一つには善意の歴史がありました。1906年(明治39年)4月18日のサンフランシスコ大地震の際、明治天皇は当時の金額で20万円を寄付されました。財界もそれに触発され、集まった義援金は日本が一番多かったそうです。このような心あたたまる「義捐(義援)の心」という歴史のあった過去を忘れてはいけないと思った次第です。このようにして震災後の3ヵ月はあわただしく過ぎていきました。そんな中、私が心を痛めたことを最後に書き留めて置きます。温かい支援の申し出の中に物資支援がありました。各地の学校、地区の各種団体、支援の為の急ごしらえのグループの皆さんからは、義援金とともに「衣類」「医療品等」の物資支援の申し入れも数多く寄せられるようになりました。しかし被災地の各自治体は物資支援を原則受け付けておらず、外務省からも被災地の受入体制、物流の関係からお断りするよう通達がありました。善意の申し出、お断りするのは致し方ないとはわかっていても辛いことでありました。
現在、私は幸いなことに福島復興に間接的ではありますが携わる機会をいただいています。微力ながらもこの仕事が福島復興、支援につながると小さいながら誇りに思って働いています。この成果が被災地復興につながればと心より願っています。
(営業統括本部 市川 俊治)


♦♦♦♦♦♦娘を返して♦♦♦♦♦♦♦
今回は「ハーグ条約と日本」というテーマを話したいと思います。
それは東日本大震災から1年ほど経過した頃に受けた、日本に住む女性からの電話でした。その女性は、アメリカ人の夫と離婚し、子供と日本で暮らしていた母親で、元夫から放射能汚染の広がる環境から子供たちをカリフォルニアで預かるという度重なる申し出を受け、子供達を元夫に託したのでした。新学期を機に子供を日本に戻してほしいという彼女に対し「まだ不安の残る日本には戻せない」と元夫は主張するという相談でした。子供を取り戻したい母親に対し法の壁が立ちふさがりました。子供の親権をめぐる法的解釈の違いが顕在化したのです。
母親の相談した日本の弁護士の見解は「お金と時間のかかる問題」だったそうです。藁をもつかむ思いで掛けて来られた領事館への電話でした。私も米国の弁護士に相談しました。その回答は「ハーグ条約に加盟していない日本の場合、お金も時間もかかる」という同じ説明でした。日本がこの条約に加盟していれば子供さんは6週間以内に居住国であった日本に返還され、裁判や話し合いで監護者が決定されることになったのです。記憶にも新しいところでは、昨年の秋、離婚調停中の女優・武田久美子さんの「離婚が成立してもハーグ条約により元旦那のサインがない限り、勝手に子供を日本につれて帰ることはできない」というコメントの記事もありました。
ところで、皆さんは「ハーグ条約」についてご存知でしょうか。ハーグ条約とは、「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」で、一方の親が国境を越えて子供を連れだした場合、子供を原則としてもとの居住国に戻したうえで、どちらの親が監護権を持つかをその国の司法当局が判断するための手続き規定です。日本も2014年4月に加盟しました。現在90ヵ国が加盟しています。今回ご紹介した例は2012年頃のことでまだ日本はハーグ条約には加盟していませんでした。


お母さんが子供を連れて外国から日本に帰国するケースはこれまでも少なからずありました。「子連れ別居」や「里帰り」は日本ではたびたび耳にします。子供を母親の所有物のように扱う傾向は日本人のメンタリティーとしてあるかもしれません。しかし欧米社会では子供が乳幼児であろうと一人の人間として扱う。これは文化の違いですね。例えば、日本人のお母さんが米国人の夫と別れたくて、子供を連れ、日本に逃げ帰るべく空港に行った時、夫の許可書を提示できないと誘拐罪が成立してしまいます。また、お子さんの日本パスポート申請を受付ける領事館も、必ずもう一方の配偶者の了解確認を行います。これはパスポート発行に先立つ、もう一方の親権者である夫の了解確認であり、発行後のクレームに備えるためです。日本人の妻が子供を連れて日本に逃げ帰るケースの背景には夫のDV(配偶者暴力)もあります。夫にパスポートを隠されてしまい「渡航書(パスポートが無い場合、日本に帰国する為だけの1回限り使用可能な入国許可書)」を至急発行して欲しいと領事館に駆け込まれるケースもあります。しかし夫の許可なく子供を連れ帰ることには「誘拐罪」が適用となるため日本政府としてもそれに加担することはできないのです。
ハーグ条約は「子供の幸せを第一に考える条約」です。欧米では、離婚後も共同で親権を有する制度(共同親権制度)を採用している国が大半です。逆に日本は、裁判による離婚後はどちらかの親だけが親権を取得することになります。離婚後の親権は「連れ去った者勝ち(日本の裁判所は、親権問題について管轄権は裁判所に申し立てられた時点で「子供のいる場所」としている)」であり、面会交流も親権を取得した側が認めない傾向があるようです。いずれにしても我が国のハーグ条約加盟により「相互主義に基づく制裁的措置」が取られることが予想されます。さらに今後、日本の「家事関係(離婚や相続をめぐる争いのような夫婦、親子、親族など家庭に関わる事)」については国内法も裁判の運用も少しずつ変わってゆくことでしょう。
(営業統括本部 市川 俊治)


◆自分は以前から英国の皇室からの生活費の送金を受けて暮らしているのだが、このところエリザベス女王からの送金が途絶えているので送金が再開するように支援を願いたい。
◆シカゴ・マフィアが自分に対して電磁波で攻撃していて命が危ないので保護してほしい。
◆日銀の金庫に財産の一部を隠しているのだが、日銀の総裁がそれを使い込んでいるので夜眠れない。何とか使い込みを止めさせてほしい。
私は領事館勤務のころ、このような相談のために来館されたり、電話や手紙で救いを求められたりといったケースを少なからず経験しました。精神的やまいの代表格が「統合失調症」ですがその病状の主訴は幻覚、妄想、自我障害です。
こうした方の対応は、根気と誠意ある傾聴が必要で、それに費やされる時間たるや短くて30分。長くなると2~3時間の拘束を覚悟する必要がありました。日本から国際電話で相談してこられる方もおられました。潮どきを見計らって「電話料金も高くなるのでそろそろ切りましょうか」と話を向けても全く意に介されない方が大半でした。来館される方も、2回目以降は如何に短時間で切り上げるかを工夫する必要があるほどでした。領事館としても、こうした方々が街で問題を起こすことの無いように帰国への支援に向けて対応することになります。
しかし、こうした相談の多くの場合、ご家族の方々は、本人の精神的な既往症を知りながらも、言葉は適切ではないかもしれませんが、厄介払い的にその行動には目をつむり送り出してしまう場合が多いのです。このような背景がありますから、ご家族は本人の帰国費用の都合や、それに際する世話を拒否するなど、本人を帰国させるのも困難を極めました。従順に帰国される方などは稀で、まずは精神科の専門医に相談します。必要に応じ入院させ、投薬により静穏化させるなどの対処をします。紆余曲折を経て帰国となるわけですが、場合によってはフライトに専門家の添乗者を同伴せざるを得ないケースもあります。このことは、日本のご家族に対して「本人と向き合って病気療養に専念させること」を同時に求められているわけです。そうした苦労にもかかわらず本人はまた現地に現れ、現地病院で再び入院、加療するということを繰
り返すのでした。



そこで外務省では、過去に精神的原因により海外で問題を起こした方の海外渡航は再発の観点からその可能性が排除できないとして、また本人の安全確保上からも好ましくないことを理由でパスポートを取り上げる対策も検討された様です。しかし、それだけの理由でのパスポート剥奪の執行には法的に多くの困難もあり、実現は見送られているとのことでした。現実問題として「パスポートの発給拒否」も法的根拠が薄いため、基本的には親族の説得により渡航を断念するよう働きかけていく、これ以外に根本的な対策はなさそうです。
今回シリアへの渡航を計画し外務省からパスポートの返納命令を受けたフリーカメラマンのケースがありました。その意味からも、これは精神にやまいのある方のケースとは比較の次元が全く異なるものの、私にとってはとても興味深い事例でした。今日もどこかの領事館で精神に病む方々の対応に苦労されている邦人援護担当領事のご苦労を思うと、精神にやまいを持つ方が、住み慣れた日本でご家族に囲まれての支援のもと、治療に専念され社会復帰をされることを切に願うものであります。
(営業統括本部 市川 俊治)

「ビールの立ち飲みで罰金!?」
領事館の電話にはいろいろな相談、問い合わせが入ってきます。
「昨夜5番街でビールを立ち飲みしていたら、ポリスに捕まり80ドルのチケットを切られた。今日日本に帰国するので支払うことが出来なく困っている」「セントラルパークの木の陰で立小便をしたらポリスにつかまり100ドルのチケットを切られたが支払う必要があるのか」といった観光客からの軽犯罪レベルの相談もあります。日本では公共の場でビールの立ち飲みしても法を犯したとして捕まることはありませんね。日本でも軽犯罪法第1条の以下各号に該当する者は、これを拘留又は科料に処するとあります。その26号に「街路又は公園その他公衆の集合する場所で、たんつばを吐き、又は大小便をし、若しくはこれをさせた者」との規定がありますが、立小便は警察に見つかってもよほどのことがない限り刑罰に処せられることはないと思います。上述の例からも、外国を訪問する場合は、その国の軽犯罪ルールを事前にチェックしておく必要がありますね。シンガポールでは海外からのガムの持ち込みは禁止されており、道端にごみを捨てると最大1,000シンガポールドル(1ドル87円として87,000円)の罰金が科せられるそうです。
さて、ニューヨーク市は1980年代からアメリカ有数の犯罪多発都市となっていましたが、1994年に検事出身のルドルフ・ジュリアーニ氏が治安回復を公約に市長に当選すると「家族連れにも安全な街にする」と宣言し、採用した政策は「割れ窓理論」と言われています。建物の窓が壊れているのを放置すると誰も注意を払っていないという象徴となり、やがて他の窓もまもなく全て壊されるという考え方です。


これは軽犯罪を厳しく取り締まることにより凶悪犯罪の発生を抑止するというものです。すなわち警察署員を5千人増員して街頭パトロールを強化する。落書き、未成年の喫煙、無賃乗車、万引き、花火、爆竹、騒音、違法駐車など、軽犯罪の徹底的な取り締まりを行ったのです。飲酒運転の厳罰化からはじまり、ポルノショップの締め出し、ホームレスを路上から排除し保護施設に強制収容して労働を強制するなどの施策を徹底して行いました。その結果、犯罪の認知件数は半分以下となり、治安は回復し、中心街も活気を取り戻し、住民や観光客が戻って来たのです。こうした努力は実を結び、今やニューヨークは米国の中でも比較的安全で美しい街となりました。
因みにニューヨークにおける直近10年間の軽犯罪ベスト5。上から順に「路上での飲酒」「治安紊乱(ちあんびんらん:公衆の場における迷惑行為、治安を乱す行為、不道徳な行為が対象)」「立小便」「歩道での自転車運転」「安全運転違反」でした。昨年末、訪問したニューヨークで驚いたことは、地下鉄のエチケット推進のキャンペーンの内容でした。「礼儀には価値がある。マナーがより良い乗車を提供する」と銘打ったポスターで、「乗車時にすること、しないこと」をわかり易いイラストを使って訴えていたことです。「すること」は、「車内は静かに」など常識的なことがほとんどでした。一方「しないこと」は、「①脚を大きく広げて座る」「②化粧や爪切り」を挙げていました。これらは哀しいかな今の日本でも実施して欲しいキャンペーン内容でした。他には「③ポールダンスをする」でした。これは何のことか分からず知人に確認したところ、車内に立っているポールを使ってアクロバットなダンスをすることで、1つの「NY地下鉄の名物」にもなっているとのことでした。皆さんどんなダンスか想像できますか。
(営業統括本部 市川 俊治)

2月号でご紹介した例は、アメリカ人の夫と離婚し、子供と日本で暮らしていた母親A子さんからの相談でした。東日本大震災による原子力発電所事故で放射能汚染が広がる日本から子供たちをカリフォルニアで預かるという元夫からの度重なる申し入れを受け、子供を元夫に託したが、新学期が始まるのに戻してくれないというケースでした。今回も放射能汚染からの脱出を餌にしたお話です。
A子さんはアメリカに帰国した男性との間に生まれた2人の子供と日本で暮らしていました。事故後その男性から連絡があり、放射能汚染から逃れるため子供と一緒にサンフランシスコに来るようにというものでした。A子さんはこれを機会に男性が正式に婚姻届の提出に合意することを期待し、子供の将来の為にも良いと判断し渡米を決意したのでした。
到着して1週間後、その男性から思いもかけないことを聞かされました。「1週間後、自分の日本人の妻が日本から来るので仲良くやってくれ」というものでした。A子さんは言葉を失い、逆上し、男性ともみあいとなり、男性の顔にひっかき傷をつけてしまいました。男性は直ぐに警察に通報。警察が飛んできて事情聴取を行った結果、A子さんが逆にDVの加害者とみなされ警察に連れて行かれ、一晩警察で厄介になった
のでした。夫から受けた暴力に対して妻が逆に加害者になるケースは、夫が暴力の痕跡が残らないようにずる賢く振る舞うからなのです。その事件直後、A子さんからの相談はとにかく日本に戻りたいので助けてほしいというものでした。


「ドメスティック・バイオレンス(DV)」の定義は一般的には「配偶者や恋人など親密な関係にある、又はあった者から振るわれる暴力」という意味で使用されることが多いようですが、昨今日本でも問題になっていますね。国際結婚され米国に在住している日本人の間でも、外国人の相手とのコミュニケーション・ギャップや価値観の違いによりDV問題が数多く顕在化しています。米国にはそれに対応すべく、DVに遭遇し
た場合の相談団体や機関が数多くあります。シェルター、カウンセリング、弁護士の紹介や法律相談、法的援護活動、生活困窮者に対する救済金申請支援等。一連の情報提供がかなりきめ細かく行なわれています。また、これらの機関の中には、日本語での利用が可能な機関もあります。領事館では、一般的にDV被害者から支援要請があった場合、支援センターを紹介するとともにシェルターを探し、当面の生活を確保す
る支援も行っています。さてA子さん家族はどうなったでしょうか。
話を伺うと、幸いA子さんはお子さん達も含めパスポートは取り上げられていませんでした。しかし、それ以上に困難だったことは、帰国のための旅券購入や、空港までの移動手段の選択でした。男性とその家族が見張る中、いかに家を抜け出せるか、多くの障害が立ちはだかっていました。まず、A子さんの日本のご実家に連絡を取り、旅券費用を振り込んでもらい変更可能な旅券を購入、次に旅行代理店にそのチケットを領事館まで届けてもらいました。日中、男性は仕事に出かけているので、その隙に抜け出そうということになりました。知り合いの日本人のタクシー運転手に事情を説明し協力を依頼、ここから手に汗握る活劇の始まりとなりました。
当日指定した時間に、家の1ブロック手前で待ってもらうことにしました。段取りを整え、私が指定の時間を待っているところに突然A子さんから電話。男性が仕事から戻ってきたとの連絡でした。急ぎドライバーに中止を連絡し、翌日、再び挑戦し無事脱出に成功したとの連絡を受けました。いよいよ私の出番です。私はA子さんの旅券をしっかり握りしめ空港に向かいました。すでに空港には緊張したA子さんとお子さん達の顔がありました。しかし驚いたのはここからでした。男性の母親と妹が見送りに来ていたのです。お二人は男性の一連の行為を申し訳なく思い見送りに来たのでした。私は、何が何だか訳が分からぬまま、人生色々と思いつつも、晴れて(?)日本に帰国されるA子さんご家族のこれからの幸せを祈りつつ、出発ゲートで男性の母親と妹さんと共に手を振り続けるのでした。
(営業統括本部 市川 俊治)


私が当社に入社したのは1995年6月でした。その後、一時勤務していない期間もありましたが20年の歳月が過ぎました。この写真は入社した年の10月、フロリダはタンパ空港のアメリカンエアライン出発ゲートでの1枚です。現、山口
社長と私が握手し他の3名の方が手を振っています。私にとって忘れられない写真である理由はこれからお話ししようと思います。
さて、皆さんは仕事や旅行の旅先、もちろん海外でパスポートを紛失した経験はありませんか。領事館にはパスポート紛失や、盗難に遭われた方が毎日と言っていいほど駆け込まれます。もちろんパスポートの再発行になるわけですが通常1週間は必要とします。ところが「帰国の為の渡航書」という日本帰国の為だけの「one way passport」であれば申請の当日または翌日には発行されます。申請には写真2葉(サイズ縦4.5×横3.5㎝)、警察への届出書1通(届出書が交付されなかった場合、届出番号「Complain Number」のみでも可)、航空券(搭乗日、座席そこで海外に行かれる場合、その備えとして、パスポートサイズの写真を2葉の持参をお勧めします。領事館の傍にもパスポート用の写真店はありますが慣れない場所では何かと手間も掛かります。パスポートには外務大臣名で、「日本国民である本旅券の所持人を通路支障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。」という保護要請文が記載されています。日本人にとっては、まさに頼もしい身分証明書であり、その重要性を充分ご理解され、その管理も「きちんと(自戒の念を込めて!!)」することが必要になるのですね。
話を1995年の10月に戻しましょう。米国放射線腫瘍学会(ASTRO)に参加するため、私はフロリダ、マイアミへ医療機器の皆さんと出張することになりました。入社4ヵ月での海外出張でもあり、男一番頑張らねばと張り切っての出張でした。マイアミでのASTRO終了後は同州のタンパにある治療計画装置のベンチャー企業訪問もミッションに残っていました。そのミッションも無事終了し明日はいよいよ帰国となった夕方です。帰り支度を始めて、はじめてパスポートとお金が無くなっていることに気が付きました。学会中マイアミのホテルでスーツケースに鍵をかけ忘れ、その時に遣られたようです。日本からのお客様も含め当社の一行は仕事を終えた解放感からホテルの庭でジャグジーを楽しんでいました。私も促されジャグジーに入ったものの気持ちそこに在らず。翌朝私一人は居残りが決定、皆さんはアトランタ経由で日本に向かいます。一人残された私は再度マイアミへ戻り総領事館でパスポートの再発行手続きをすることとなりました。
忘れられない写真にはこのような経緯があったのです。搭乗ゲートを境に居残りさんの私を気遣いながらもにこやかな皆さんは手を振るものの寂しさも極みでした。写真は右から齋藤俊也さん、音無昭彦さん(退社)、澄川清志さん、山口社長です。
マイアミの領事館ではパスポートが盗難に遭ったので再発行をして欲しい旨を伝えたところ、警察にレポートし届出書をもらってくるように言われました。雨の降る中やっとたどり着いた警察署では、取られたものは今さら届けても仕方がないのでComplain Numberも発行出来ないとあっさり拒否されてしまいました。領事館の窓口で事情を説明しても「番号がなければ渡航書は出せない」と一点張りの年配の女性。(とにかく私は明日までには日本に向けて米国を離れなければ先に帰国した皆さんと同様に月曜に出社できなくなるので必死の思いでした。)「自分はこのままマイアミに留まる訳にはいかないし、領事館もそのままビザなしで滞在されたのでは困るのでは」そんな問答を繰り返し、繰り返して交渉の結果、やっと帰国の為の渡航書を入手できホッと一息。(実を申しますと後年このマイアミ領事館での体験が「60歳から領事シニアボランティア」として領事館で働きたいと願う原体験となったのです。一つの経験が後でどう生きて来るか分からないものです。
難関はまだ残っていました。次は私の持っていた格安航空券です。当初のフライトに乗れなければ無効であったのです。そんなことは百も承知、ここまで来て「はい、左様でございますか」と引き下がるわけにはいきません。航空券の発券カウンターで担当官に交渉するも当然のことながら、相手は「規則でダメ」の一点張り。私は「パスポートを取られたのが原因で予定の便に搭乗できなかったのであり、パスポートを取られた落ち度は反省するが、故意に搭乗しなかった訳ではない」といった言い訳。「自由で寛容なアメリカが好きでまた是非マイアミを訪問したい」とか、いろいろ担当官の気持ちを翻すべく言ったものの埒が明きません。カウンターに突っ伏す私の後ろには長い列。そこからの視線が背中に浴びせられているのを感じざるを得ない状況でした。でもこれ以上の出費は出来ないと一歩も引くわけにはいきませんでした。この視線を味方につけようと、仕方なく横にずれてカウンターに伏せ続けました。10分、20分も経過したでしょうか、担当官から突然「発券してやる」との神託がありました。長い一日が終わり、その夜は空港のホテルで爆睡となりました。一日遅れで無事帰国できたものの、初出張の時の忘れられない写真でした。もう時効と今回独白するに至りました。「パスポート肌身離さず成田まで!」 (営業統括本部 市川 俊治)

右から幡野先生(現東京ベイ先端医療・幕張クリニック院長)、森純一さん、齋藤俊也さん、市川、山口社長、澄川清志さん

●●チップ金額改ざん事件!!●●
セントラルパークの木葉が色付き始めた10月初め、ニューヨーク総領事館に一人の日本人女性のA子さんから相談が寄せられました。彼女はマンハッタンのレストランでウエイトレスとして働いていました。彼女の持ち込んだ相談、それは自分の働くレストランで日々繰り広げられるチップ改ざんについてでした。マネージャーとウエイターがグルになってお客の支払伝票に記入したチップの数字を改ざんし、不当な料金を請求しているので止めさせてほしいというものでした。顧客がチップ欄に15ドルと記入した場合、1を4に改ざんして45ドルとし、その差額30ドルをピンハネするというのです。正義感の強いA子さんにとってこれら日々繰り返される不正行為は黙認することが出来なかったのでしょう。
皆さんも海外に行かれた時、慣れないチップ制度に煩わしさとともにいくら払えばいいのだろうと不安に感じられることがあろうかと思います。空港に到着しタクシーに乗り込み料金を支払う段になって寝不足で頭が回らない中で、色々考えてチップの計算をするのは辛いものです。そのチップ天国の米国ではこのチップがとても重要な意味合いを持っています。
レストランのウエイター・ウエイトレスなどは連邦最低賃金を遥かに下回る低賃金で合法的に労働を強いられています。その理由は、足りない分はチップで稼ぐというチップも賃金の一部とみなされているからなのです。無論チップを賃金の一部として働く人々の中には年俸で働く従業員よりはるかにチップで稼ぐ方もいらっしゃいます。たとえばホテルの玄関で働く車のドアマン。彼は車のドアを開けるたびに1ドル札が転がり込み、ポケットは1ドル札で溢れている光景が見られます。
それではチップの配分方法(ルール)はと申しますと、ニューヨーク労働省のガイダンスに基づきチップの受け取り方はそれぞれのお店で決められている様です。例えばクレジットカードで支払われたチップの場合です。「雇い主にはチップは分配しない」「サービスを行わない従業員、料理人(シェフ)はチップを受け取れない(但し、寿司職人は例外のようです)」等々です。そんなチップを巡っては、キッチンの中で働く人々と接客担当の間でトラブルが発生する事例も少なくないようです。

そんな中、私がニューヨーク総領事館に勤務していた2004年9月当時、ニューヨーク州レークジョージにあるレストランでは店が定める比率のチップを支払わなかったとして同州に住む顧客男性が捕縛、起訴されたことがありました。これに対して裁判所はレストラン側の訴えを棄却しました。顧客男性は8人の仲間と一緒にレストランを訪れ、ピザを注文。味などに満足がいかなかったため、「10%未満」のチップしか渡しませんでした。しかしメニューにも「6人以上の団体客には会計時に『18%』のチップを頂きます」と書いてあると主張するレストラン側と口論となり、男性はこれに応じなかったため、「サービスの窃盗」容疑で逮捕され、法廷闘争にまで発展したのです。裁判所は「チップの支払いは任意」との判断をした上で、レストラン側が18%のチップを設定していたとしても支払いを強制することは出来ないと結論付け、レストラン側の主張は退けられました。一方、男性はチップの支払い追及を免れたものの、裁判費用で数百ドルの出費を強いられることになりました。
いずれにせよ、レストランによっては店側が勘定書にチップを前もって勝手に加えている所もあり、それを知らず更にチップを払ってしまうケースも見受けられます。チップが始まった頃は僅かな金額でサービス向上をもたらすというメリットがあったと考えられます。しかし、それがだんだん肥大化し慣習化した結果、チップは本来の意義を失ってしまったように見えます。そんな中、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコの名だたる有名店の多くはチップ廃止も増えつつあります。
さて、冒頭にお話しした日本人女性の訴えには総領事館には当地の司法権は無いのでお応えすることが出来ませんでした。チップ制度がなくなることはないでしょうが、チップが始まった原点に戻り運用されていくようになれば、彼女の悩みも解消されることでしょう。さて先日、日本経済新聞に「チップ廃止の意味するもの」と題した記事(※)が載りました。長くなりますが、興味深いので一部引用し転載いたします。(営業統括本部 市川 俊治)
(日本経済新聞 2015年10月25日朝刊)
※米レストラン運営のユニオン・スクエア・ホスピタリティ・グループを率い、姉妹店などを通じ日本の知名度も高いダニー・マイヤー氏が14日、傘下店舗でチップを順次廃止すると発表した。これに対し英紙フィナンシャル・タイムズは社説でチップの習慣を「貴族趣味」で「非米国的」とし、「マイヤー氏の決断は歓迎すべきものだ」と評価し、さらにチップという、やや不透明なお金のやり取りが「21世紀の米国で一大ビジネスになっている」と批判している。同じくニューヨーク・タイムズの社説では「チップをもらえるサーバー(ウエイター)などともらえない厨房従業員との賃金格差を埋める目的がある」と分析した。米国の飲食店で働くひとは、お客に配膳など直接のサービスをするチップ制従業員と調理に専念する非チップ制従業員に分かれている。お客がはずんでくれた心づけは非チップ制従業員には回らない。その結果、ともすれば調理人は金銭的にも精神的にも満足度の低い職業となり、優秀な人材が集まらなくなる。「多くのレストランは質の高い厨房従業員を探すのに四苦八苦」。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルはこんなマイヤー氏を伝える。マイヤー氏のレストランでは、チップの廃止分にほぼ見合う金額が料金に上乗せされる。このためお客の金銭的な負担はほとんど変わらない。店側が収入を分配する権限を持つため、腕の良いシェフの給料を上げやすくなるという。労働の分配のあり方、さらにはチップと納税の関係にも考えを向けさせる事例といえる。


米国での体験を通じて心を動かされた事柄に「日本人・日系人の祖国愛、郷土愛(パトリオティズム)」がありました。それは東日本大震災の後のことでした。全米各地で日本人・日系人が個人、組織を通じて、また自らグループを組織して義援金、支援物資を集め、日本に送るべく多くの方たちが立ち上がりました。それは誰に強制されたものでなく、自然に心の底から湧きあがる、祖国日本を思う心が突き動かしたもので
した。さて、米国に住む日本人の傾向として、いずれ日本に帰り住むという方が多数を占めています。この点は韓国、中国の人々とは異なります。米国籍を取得された方も老後は日本で暮らし帰化して日本国籍に戻りたいという方もいらっしゃいます。NYに住む永住予定の日本人は、国際結婚しても米国籍を取得される人が少ないとのデータもあります。皆さん日本人としてのアイデンティティーを大事にされているわけです。
もちろん米国に渡った日本人の中にも米国社会で生きていくために米国籍を取得される方も居られます。それは通常一大決心が求められることなのです。日本の国籍法では二重国籍は認めていません。米国籍を取得された時点で日本国籍は喪失することになります。現実に米国籍を取得される方の中には結婚、仕事、教育、親の介護等の理由で仕方なく米国籍を取得される方が多くいらっしゃいます。矛盾するような話になりますが米国籍を取得後も、多くの日本人は何とか日本国籍を保持し続けるためにパスポートをキープすべく種々努力をなされます。それは日本人としてのアイデンティティーを失いたくないという裏返しの想いがそうさせるのです。米国人として生きていく狭間の中で、苦悩した人々の歴史に思いをはせるとき私の胸には熱いものがこみ上げて来ます。
1941年12月7日、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲すると、アメリカはすぐ、日系アメリカ人が国防に危険をもたらすのではないかと疑い、西海岸に居住していた12万人の日本人並びに日系米国人は財産を没収された上、根拠もないまま強制収容所に拘束されました。その7割はアメリカ生まれの二世であり米国市民権をもっていたにもかかわらずです。
サンフランシスコ総領事館では毎夏、全米11ヵ所あった強制収容所の一つであるカリフォルニア州マンザナール強制収容所を日系団体の皆さんと訪問しています。デスバレーと呼ばれるその荒野に立ち、往時の様子を想像するとき「収容施設は有刺鉄線に囲まれ、銃を持った兵士が終日監視していた」そうです。そこでの生活の苦しさ精神的苦痛を考える時それは如何ばかりのものであったことだろうと思いました。また、この谷の自然環境の厳しさがその苛酷さに拍車をかけたことも疑いようもありません。日系であっても米国人の自分達がなぜ収容所にいれられるのか。米国に忠誠を誓い、米国籍を取得したにも関わらず収容されたという事実。これは悶々とする日々であったと容易に想像されます。
そんな中、1943年1月には日系人による部隊への志願兵の募集が始められました。部隊名は「第442連隊」、ここにはアメリカ本土の強制収容所からは800人の日系志願兵が入隊しました。そして第442連隊はヨーロッパ戦線に投入され多くの死傷者を出しながらも勇猛果敢に戦った話は有名です。ヨーロッパ戦線では大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げたとして1946年にはトルーマン大統領自ら「諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した(Youought not only the enemy, you foughtprejudice-and you won.)」と讃えています。しかしながらこうした戦歴にもふり返られること無く、戦後も日系人への人種差別や偏見はなかなか変わりませんでした。


第442部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した隊員達も、白人住民から「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といった謗りを受け蔑視にされ、仕事につくこともできず、財産や家も失われたままの状態に置かれたのです。
戦後30年を経た1982年、アメリカ議会において任命された「マンザナール調査委員会」は、「日系アメリカ人強制収容は適当な国防上の理由で行われたものではなく、その真の理由は人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政であった」と結論を出しました。1988年8月10日、ロナルド・レーガン大統領は『1988年市民の自由法』に署名し、アメリカ政府は初めて公式に日系アメリカ人に謝罪し、生存している被強制収容者全員にそれぞれ2万ドルの補償金が支払われました。
これは余談ながら同じ敵国であったドイツ系やイタリア系アメリカ人については大掛かりな強制収容は行われませんでした。
84年から91年、私がアメリカに滞在した期間は、日本がバブルの絶頂期から崩壊の時代。日本企業がロックフェラーセンタービルに始まり全米の不動産を買いあさりJapan as Number Oneともてはやされました。90年代には日米貿易戦争が起こり、日本車がこれ見よがしに壊される日本車バッシングのシーンが放映されたりしました。こうした日米の歴史の中において常に日本を想い、支え続けたこれら多くの日系人の方々が居られたということを忘れてはならないと思います。サンフランシスコの日本人町には日本人移民の歴史を説明する立て看板があります。その中で私が最も印象に残ったのは、お見合い写真だけでまだ見ぬ未来の夫への望みを託し太平洋の海を渡った数多くの大和撫子たちの物語です。
写真と実物とは大違い(見栄えの良い他人の写真を使用した為)の夫に落胆を引きずることなく、たくましく前向きに生き抜いた海を渡った大和撫子たちがありました。その胸中には日本に残した家族はもちろんのこと、祖国を背負って日本を離れたという自負があったのかもしれません。
人、物、金、サービスがグローバル化し国境を越えて行き来するいま、国境を越えた移住や国際結婚も増加し、複数の国に対して忠誠心を持つことを強いられることとなれば、新たな葛藤が生まれるかもしれません。二重国籍の方は時に忠誠心と帰属意識との間に多くの軋轢を感じることがあるかもしれません。しかしその存在は国と国との間のコミュニケーションを生み出す架け橋の役割を果たしていくことでしょう。願わくは二重国籍が認められ、選挙権を得て地元に定着していく。そこから新たなリーダーが誕生していくことにより、日本人のコミュニティーも大きな力となり、それが日本と米国とのより一層の絆の強化につながればと願うものです。
♫ 志(こころざし)を 果たして
いつの日にか 帰(かえ)らん
山はあおきふるさと
水は清き ふるさと ♫
(唱歌「ふるさと」第3番)
私は、それぞれの志を胸にアメリカに渡った先人のことを思うとき、この歌を時々口ずさみます。今回をもって本稿は最終回となります。これまでのご愛読に心より感謝いたします。(営業統括本部 市川 俊治)